雨の日は廃墟の話でもしよう
はじめに
ちょっと前に、口笛文庫*1で「見えない都市」という小説を買った。
- 作者: イタロカルヴィーノ,Italo Calvino,米川良夫
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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さて、そのなかにバウチという都市*2についての話がある。一部引用する。
……バウチの住民については三つの仮説が与えられております。すなわち、彼らは大地を憎んでいるのか、あるいは逆に、一切の触合いを恐れるほどにそれを尊敬しているのか、さもなくばまだ彼らの存在し始める以前とそのままの大地を愛しんでおり、遠眼鏡、望遠鏡を下にむけて、木の葉の一枚ずつ、小石の一つずつ、また蟻一匹ずつを順々に眺めまわしては、おのれらの不在にただ恍惚と見とれているのかでございます。
「おのれらの不在にただ恍惚と見とれている」というのはとてもいい。ぼくはこの言葉からなんとなく廃墟を連想する。
そして誰もいなくなった
廃墟はいい。このことには疑いがない。廃墟が好きな人でなくとも
「この建物の寂れた感じ、味があっていいよなあ」
なんて言ってみたりすることはあるだろう。
だが、なぜ廃墟がいいのかという質問に答えるのは難しい。
ひとつ言えるのは「廃墟には人がいない」ということだ。何を当たり前のことを、と思われるだろうが、人が定住/定期的に利用していたらそれは廃墟ではない。*3。このことは重要である。
たとえば、廃墟の写真は人がいない状態で撮られるべきである、というのは多くの人が持つ美意識だと思う。つまり、「おのれらの不在にただ恍惚と見とれ」ることができる状態であってほしいということだ。廃墟を舞台として撮られた人物写真は、被写体に生活感が漂えば漂うほど我々の気を滅入らせる。被写体はあくまで「廃墟のように」振る舞わなければならない。
標語的に言えば、「人間はいらない」ということだ。
この点において廃墟は「世界で最後の一人になったら」というシチュエーションと深くつながっている。無人の都市はきっと美しいにちがいない。大量の人類によって作り出された文明世界は、人類が絶滅したときに最良の時を迎えるのかもしれない。ここには逆理がある。他人の存在についての逆理がある。社会が作り出した果実をたったひとりで独占したいという僭主としての欲望がある。
廃墟はこのような状況のミニチュアとして見ることができよう。
人間抜き。
世界の終わり、の予兆
さて、ここまで述べてきたように、廃墟には人がいない。このことは我々に自由をもたらす。
たとえばA.タルコフスキー「ストーカー」を見てみよう。
Сталкер
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この映画ではゾーン*4の奥にある廃墟の部屋が「願望機」になっている。自分が心の奥底で望んでいる願いを叶える部屋だ*5。
これが廃墟の奥底に設定されているのはある種の必然だろう。なぜ「部屋」があるのか、誰にもわからない。それでいい。ここにおいて説明は不要である。廃墟の存在的曖昧さ、自由さがこのような装置の存在を許している。
血気盛んな人たちが廃墟で家具をぶち壊したりするのも、「誰もいないから」「どうせ壊れてるんだから」という開放感があってのことだと思う。当然のことだが創作物で悪役が潜伏する際にも廃墟はしばしば選択される。廃墟はアウトローの住処だ。たとえば、帝都物語〈第弐番〉 (角川文庫)で魔人・加藤保憲が潜伏先としたのは谷中の荒れ寺であった。
これらの自由さは、人がいないというだけでなく「この建物は、この場所はいずれ自然に還る」「いずれ滅びる」という予感にも由来する。(社会的に)建築されたものであるにも関わらず、法律や社会通念をはなれ、自然になろうとしているところが廃墟の魅力のひとつなのかもしれない。
Instagramのアカウントに「castlesofscotland」というのがあるが、これを見ていると「よくこんな場所に建ってるな」という気持ちとともに「滅び」を強く感じる。
通勤とかしにくそう。
You are dust, and to dust you shall return
*6一方で純粋な自然と比べたとき、廃墟は「死」の臭いを漂わせている。廃墟は建物の死であり、その最期は必ずしもきれいなものとはいえない。トマソン*7のように半死半生の状態で保存されてしまったようなものもある。
フロイトは「……すべての生命体の目標は死である……」と述べた*8。まあわざわざフロイトなど引かずとも、死というのは意外とポップなものである。ゾンビ、フランケンシュタインの怪物*9、連続殺人鬼のエピソード、はげしい威力をもつ感染症*10、etc...に興味をもつ人は少なくないだろう。あえて我々はこの死を肯定しよう。すべての人は死ぬ、にもかかわらず。
「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」*11。
「死、この絶対的主人」*12。
「そんなことわかってるよ」と皆言うだろうが、もう一度自分の口で反芻してみよう。「すべての人が死ぬ」。この事実だけが我々の世界を貫いている。これにはあらゆる解釈が与えられうるが、事実は事実だ。
だが我々にとってほとんどすべての死はひとごとである。「死は、「この私」に起こる」*13ということを忘れている限りにおいては。「この私」の死は看取ることができないが、他者の死はそれを看取り葬送することができる。その限りにおいて廃墟は鑑賞されうる。「俺は生きているぞ」などというむなしい言明はここでは必要とされない。みな死んでいる。廃墟を鑑賞し、それを死なしめることによって、我々は死を超越することなどできないということを知ることができる。
使い古された言葉だが、"memento mori"、「死を想起せよ」ということだ。廃墟には明らかにこの機能がある。
話は変わるが、全国で名前は違えど「空き家条例」に類するものが2010年ごろから制定されはじめている。これらは廃墟を持ち主にかわって行政代執行で撤去できるようにするもので、一時期の廃墟解体ラッシュをもたらした*14。これは廃墟にとっての葬送なのだろうか。*15
太古の森林へ
また、廃墟は我々を拒絶する。廃墟というのは魅力的であると同時に行ってはいけないところだ。法としてもそうだし、床板が腐食していたり天井がくずれてきたりする実際的な危険もある。先ほど述べたことと矛盾するようだが、自由な廃墟など存在するのだろうか。むしろ廃墟は禁止されることによってその魅力を増すのか。
このようなことが描かれているのがベックリン「死の島」*16
で、ぼくはこの絵がかなり好きだ。石壁や蒼古とした森があらわす厳然たる拒否、タイトルを見ずともわかる濃密な死の気配、それでいて漂うほのかな安心感。秘密基地のようなどこか懐かしい感覚。
この絵はまた古いゲルマンの森林信仰を思わせる。タキトゥス「ゲルマニア」*17によると、セムノーネース族には神聖な森に人身を捧げて秘儀(primordia)を執行する伝統があったというが、この森にはルールがある。鎖に身体を縛られることなくしては入ることができず、中で躓いたとしても他の人はそれを助け起こしてはならない。ゴロゴロ転がって森の外へでるほかないようだ。これは単なる部族の風習という以外の意味を持っているとぼくは思う。
拒絶によってうまれる神聖性というのも廃墟を構成する一要素であろう。
おわりに
廃墟にはさまざまな側面があるという話でした。
文中で廃墟の解体が進んでいるということを書いたが、兵庫県が誇る廃墟の女王・摩耶観光ホテルは逆に観光資源にして活用しようということになっているらしい。
www.kobe-np.co.jp
廃墟とひとくちに言ってもいろんな生き様がありますね。廃墟、サイコ〜〜!!(カメラに向かって笑顔)
*1:大学の近所にある、本がそこかしこに山積みになっているタイプの古本屋。最高。 https://www.kuchibuebunko.com/blank-2
*2:竹馬のような脚に支えられた空中都市
*3:一時期のピエリ守山 - Wikipedia のような「生ける廃墟」が存在するという見方もあると思うが、あれは単に人がいないショッピングモールであって廃墟ではない。私見。人がいないショッピングモールには「廃墟的」な最高さがあるという意見には賛成。
*4:チェルノブイリ原発事故によって立ち入れなくなった地域も後にこう呼ばれるようになった。
*5:勘のいい方はこの記述の危うさに気づかれただろう。作中には、弟の復活を願ったはずが大金を持って帰ってきたジカブラスという男が(名前だけ)登場する。
*6:創世記3:19
*7:有名なので註をつけるまでもないかと思うが、「建築物に付着して、美しく保存されている無用の長物」、たとえば行き先のない階段や2階の壁に設置されたドアのようなもののこと。超芸術トマソン (ちくま文庫)がバイブル。
*8:「快感原則の彼岸」、たしか「自我論集 (ちくま学芸文庫)」に収録。
*9:フランケンシュタインというのは怪物の名前ではなくそれをつくった科学者の名前で……というのはシェリー研究者が話のマクラによく使うらしい。
*10:ぼくはエボラ出血熱を描いた「ホット・ゾーン」を読んでめちゃくちゃおもしろいなと思ったが、どうもこの本は専門家からの評判が悪いらしい。
*11:江川紹子」「「オウム真理教」追跡2200日」ビデオの中で衝撃的な映像とともに麻原自身の声でこの言葉が繰り返される。
*12:Lacan, S. Ⅵ "Le désir et son interprétation"
*14:2010年に埼玉県所沢市、都道府県においては和歌山県の「景観支障防止条例」が初出。このあたりの記述は「廃墟本remix」ちくま文庫 による。
*15:もちろん廃墟に興味がない人たちにとっては至って喜ばしい条例なのは言うまでもない。