批評誌「夜航」批評――その1

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経緯

神戸大学国際文化学部のひとが「夜航」という批評誌をつくったのをTwitter(@Yako_Kobe )で知った。
雑誌を創刊するというのは僕にとって憧れの対象だったのでカッコいいことしてるひとたちがいるなあと思った。思っていたところで、実は中の人が後輩の先輩(ややこしい)だったらしく、ぜひ僕に読んでほしいとお声がかかった。元から読む気満々だったので、これによって読む気が満々満々になって、読んだ。

批評誌を批評する

読む前から読み終わったら「『夜航』の批評」を書こうと決めていた。理由は、「批評誌批評」という日本語が面白いから。
だが夜航を読んでいくと、正規の人文教育をうけた国文生はなかなか手強く、工学部でのんきに暮らしていた自分にこれをただしく批評できるのか怪しいなと思いはじめた。これは今もそう思っている。
野良批評家ゆえの至らない部分はご容赦願うとして、とりあえずやってみます。

想像力をもとめた航路へ―国際文化学部への鎮魂歌―

「現代日本人の健忘症・不感症ならびに秀才的な手際よさに抗って見せる為」にこの雑誌は上梓されたという。
ここで言われる「健忘症・不感症」というのは一貫した関心を持ち続けることを厭う気持ちのことである。では「一貫した関心がもてない」対象にはどのようなものが想定されているかというと、それは宗教・イデオロギーなどの「大きくて、自分とは関係ない物語」のことだろうと思う。北朝鮮のミサイル・国際的なテロがそのようなものの実例として挙げられている。では人々は何に関心をもつかというと、身の回りの「小さい物語」に関心を持つのではないか。たとえば学校・バイト・家族関係・友人関係のような。人々はこの点においては、「秀才的な手際よさ」を発揮する。
よって冒頭の宣言は
「現代日本人の<大きな物語に対する>健忘症・不感症ならびに<小さな物語に対する>秀才的な手際よさ」
と読むことができる。

このふたつの物語の乖離は、テクストの中盤以降に述べられている「理論と実践の乖離」そのものである。
分野横断的態度を特徴とする「文化」や、超越的な真理を目指す思想・理論が、悪しき相対主義や企業と結びついた素朴な実践主義にズタズタに切り裂かれる様子は、大きな物語が小さな物語へと崩壊していく過程とみることができる。もちろん大きな物語が無条件によいわけではない*1が、偏りは得てして弊害をうむ。

この分断は「想像力」によって治癒されると書かれている。すべてが相対主義に呑まれていくなかで「意味」の確定にこだわること、生き生きしたかたちで「理論と実践」「思想と政治」*2を媒介することが我々の為すことである、という筆者の意見には賛成できる。しかし、カントを引用した議論にコメントしたいところがある。

……数字や記号によってカミソリ的に世界を分析したり重箱の隅を突くような言語ゲームを展開したりする悪しき理論的態度……

という記述が4pの最終段落にある。これは恣意的な見方だろう。
想像力による分析が「ほんとう」の分析であって、数字を用いた分析は無味乾燥な現実の代用物にすぎない、というのは根拠を欠いている。
「科学的分析は現実を真に反映したものにはなっていない(現実をモデル化したものを分析している)」
という言説を真と認めるとしても、それなら
「『想像』的分析は現実を真に反映したものになっていない(現実をモデル化したものを分析している)」

という言説も同様に成り立っておかしくないだろう。
「ナマの現実」というのは不可触であって、それが科学では分析できないが想像では分析できるというのは誤っていると思う。なぜなら、科学にせよ想像力にせよ言語のフィルターを通すことにかわりないからだ。ラカンがいうように、言語を獲得した我々にとって現実*3とは「不可能なもの」である。ここまで述べたのは現実の分析が不可能だという虚無的な立場の意見ではなく、どんな手段をとるにせよある種のモデル化が入ることを認めなくてはいけないということだ。

また、「言語ゲーム」というのがウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」であるならば*4、それが重箱の隅をつつくようであるという批判はあたらないだろう。日常言語は厳密な性質をもつのではなくゲームにおける機能をもっており、ゲームどうしは緩くつながっているというのが彼の説であって、これは重箱の隅をつつくのとは真逆の方向だろう。

さて、大筋の読解は終わったが、最後に引用されている丸山眞男の言葉がよかったのでここにも引用する。

学問的真理の「無力」さは、北極星の「無力」さに似ている。
北極星は道に迷った旅人に手をさしのべて、導いてはくれない。
しかし北極星はいかなる旅人にも、つねに基本的方角を示すしるしとなる。

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ここにもうひとつ引用を付け加えておこう。

人間にとって、当てもなくさまようことほど辛いことはない。
――ホメロスオデュッセイア」より

特集Ⅰ「国際文化学部」とは何だったのか

これはインタビュー記事なので、批評というか感想文。
まず櫻井徹先生が学部長になっていたのを知らなかったのでそこから驚いた。僕が入学したときは学部長じゃなかった気がする。
前に櫻井先生の教養原論を受けたことがあって、いい先生だなあと思った覚えがあるけど、インタビューの最初のほうを読んでいて納得した。

……僕は法哲学者の中ではかなり融通無碍というか、いわゆる伝統的な法哲学の枠組みをさほど居心地良く思っていない類の研究者……

何十年も研究している自分の専門分野に疑いの目を向けつづけることは難しいだろうし、こういう気持ちを持っているひとは教育者としても研究者としてもスゴいと思う。

で、途中からは国際文化学部が国際人間科学部に移行するにあたって変わるものと変わらないもの、というテーマに話が移る。
僕が特におもしろいと思ったのは、枝葉の部分で申し訳ないが、「国際文化」「グローバル文化」という名前についてのところ。

「国際文化」というのは端的に言って存在しないですよね。

という超然とした発言がすごい。世界的に拡散しつつある文化を「グローバル文化 Global Cultures」と呼ぶことはできるが、「国際文化」が指し示す対象は存在しないという指摘はごもっともで、学部の名称変更も必然的に思えてくる。

カタカナがチャラいという人がいるかもしれませんが(笑)

ごめんなさい!!

次回予告

とうとう本題の批評に入れなかった。次回「決断・虚構・美」を読みます!

*1:ファシズム神権政治など

*2:理論は大きな、実践は小さな物語であるとしたが、そうすると思想は大きな物語で政治は小さな物語であるということになってしまう。だが冒頭の例によると政治は大きな物語であってこれは矛盾する。…と思ったが、僕の論理展開のほうがどこかで間違っているんだろうか。政治は大衆にとっては大きく見えるが学問からしたら小さく見えるというのが問題な気もする

*3:ここでいう現実はカントの「物自体」に近い

*4:ここで使われている「言語ゲーム」が「言葉遊び」の意味であるなら問題はないが、文脈からして誤解を招きやすいと思う。