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ウサイン・ボルトと原付を接続したら

思考実験

「幻肢」を知っているだろうか。
手足を切断されてしまったひとが、ないはずの手足の存在をそこに感じるという症状である。
まぼろしの手足が痛む「幻肢痛」という症状も有名だ。切断されてしまった足の爪が肉にくいこんで痛むという患者もいるという。
ウサインボルトと原付を接続するのはもうちょっと後になるのでしばらく待っていただきたい。ボルトのところだけ読みたいひとはサーっと飛ばしてください。
さて、幻肢の実例をみてみよう。
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ある水夫の話と、さかさめがねの話

ある水夫が、ふとしたことから右手の人さし指を切り落してしまった。
そのあと四十年間、彼はその指のファントムに悩まされた。むかし切り落した瞬間にそうであったように、いつまでも硬直してぴんと伸びたままである。
右手を顔の方に近づける時はいつも――たとえば、ものを食べる時とか鼻がかゆい時とか――この指が目にずぶりと刺さらないかと心配だった。
(ありえないことだとわかっていても、そういう感じはどうしようもないのだった。)
そのうちに彼は糖尿病性末梢神経障害にかかり、指があるという感覚さえも失われてしまった。
すると例の指のファントムもまた消えてしまった。
*2

おもしろい例。彼の脳は、指があったころの身体イメージをもったままで停止しているのだろう。
もう一例。こちらは幻肢とはちょっとちがう話。
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被験者に、「さかさめがね」をかけながら生活してもらう。さかさめがねとは、視界が上下逆転してみえるようなめがねのことである。
ものの見える位置と実際の位置がくいちがうので、はじめはひどい酔いや吐き気を感じる。
しかし、数週間すると、世界はふたたび正立して見えだす。

人間の脳が、視界の上下逆転にも対応できるようなやわらかさを持っていることを示す実験である。*3

そして接続されるボルトと原付

後輩と、ボルトの上半身と下半身を切断して原付とつなぐ話をしていた。*4
古典落語「胴切り」みたいに、上半身は上半身、下半身は下半身で元気にうごいている。下半身は楽しそうに100mを9秒58で走っているが、かわいそうなのは上半身である。まぼろしの両足が腰から生えている感覚だけはありながら、どうにもしようがない。*5大好きなコールオブデューティーでもやって暇をつぶすしかないだろう。

そこで我々は原付のサドル部分にボルトの上半身を移植することにした。大手術である。
麻酔からさめたボルトは奇妙な二重感覚をおぼえるだろう。自分の脚の幽霊が存在する場所に、ホンダ・スーパーカブのボディがかさなって鎮座しているのだから無理もない。
車輪ふたつじゃ立っていられないんじゃないかとか、もっといいバイクと繋いでやれとか、上半身をサドルに埋め込んだらウンコはどうするんだとか様々な苦情があると思うが、そんなことはどうでもよろしい。ボルトはアイドルだからウンコしない。スーパーカブは世界最高のバイクだ。
はじめは困惑顔だったボルトも、一週間も下半身を走らせていればだんだん慣れてくるだろう。人間が車を運転するときに車幅感覚というのがある。自分の手や足の位置を感覚としてなんとなく把握できるように、車の縦や横の幅がどのくらいなのか、ボディ・イメージとしてわかるようになっていく。
それを極めたような感覚をボルトは持つようになるはずだ。陸上界の怪物は、車幅感覚界の怪物へと転身を遂げた。縦列駐車もドリフトもらくらくである。

それから数ヶ月。
こうして第二の生を謳歌しはじめたボルトには申し訳ないが、そろそろ上半身と下半身をつなぎなおさなくてはいけない。
あまりにも長い間上半身と下半身を引き離しておくと魂が分裂して成仏できなくなるのである。エジプトの死者の書にも書いてある。
一度はつながれたボルトとカブのボディを外科的に切り離す。上半身と下半身の結合手術がはじまるまで、ボルトの上半身はしばし手術台におきっぱなしにされる。
僕が興味をもっているのは、この時ボルトがどのような幻肢を感じるのかということだ。
カブのかたちをした幻肢を感じて、あまつさえエンジン部分に幻肢痛を感じたりするのだろうか。もはやそれに「幻肢」という名前をあたえることは適当ではないが。
人ならざるボディイメージを獲得した男がふたたび人間の身体に戻ったとき、何を感じるのだろう。
通常の幻肢でさえ常人には想像しにくいのに、ボルトはそれよりもはるか遠くへいってしまった。世界最速の男である。

あとがき

ボルト選手とジャマイカのみなさんごめんなさい!

*1:「<意識>とは何だろうか」下條信輔 より。もう一個の画像もそうです

*2:「妻と帽子をまちがえた男」O.サックス より。下線などは自分

*3:そもそも人間の網膜に届く像は上下逆転しているので、さかさめがねをかけて生まれてきたようなもの。そう考えると再度の上下逆転に適応できることはそんなに不思議ではない

*4:40kmで走る原付に40kmで走るボルトがぴったり追いついたら何が起きるの?というのは、左利きベースを右持ちする某人がいいはじめた話らしいんだけど、合体させたのは我々

*5:この時下半身はまぼろしの上半身を感じているのだろうか。重大な問題