サークルクラッシュとは皇居であり、天ぷらである-バルトで読み解くサークルクラッシュ

はじめに

 浜の真砂は尽きるとも、世にサークラの種は尽きまじーーというわけで、サークルクラッシュ*1は今やありふれた現象だ。大学の文化系サークルを筆頭にして、構成員が恋愛経験にとぼしい集団なら「サークルクラッシャー」は発生しうる。

 そしてサークルクラッシャーが存在する以上、被害者(と呼ぶべきかはわからないがともかく被害者)である「クラッシャられ*2」が存在する。べつに同性愛でもなんでもサークルクラッシュは起きうるのだが、ここからは「サークルクラッシャーが女性、クラッシャられが男性」として話を進めていこう。まあこの組み合わせが一番多いだろうからゆるしてほしい。

 サークルクラッシャーが自らの承認欲求*3を満たすために女性の少ないサークルで「姫」として君臨し男性メンバーに愛想をふりまく。だが、やがて男性どうしの嫉妬によってサークル全体が崩壊へといたるーーというのがクラッシュ現象の一般的な解釈だ。しかし、この解釈はいささか「クラッシュの中心」にかたよった見方ではないだろうか。

空虚の中心

 フランスの思想家ロラン・バルトは、日本を題材にして「表徴の帝国」という本を書いた。その中でバルトは、大都市東京の中心が「空虚」な皇居であることに驚いている。f:id:silver801:20151222235534j:plain

 いかにも西洋人であるバルトにとって、都市の中心とは教会、官庁、銀行、広場などの社会的であり有意味なものだった。だが、東京においては、中心は、彼の言い方を借りるならば「神聖なる<無>」である。重要ではあるが、誰も見ることができず、緑におおわれ、堀で防御された、タクシー運転手に迂回を強いる禁城。よくよく考えたら、世界随一の大都市の中心が<無>であるというのも妙な話だ。バルトが見た皇居とは、そのような意味で「非現実的な中心」だった。

 いったいロラン・バルトの主張がサークルクラッシュにどう関係するのか。先をいそぎたいところだが、ここでもう一つ「天ぷら」の話をしよう。f:id:silver801:20151223000221j:plain

  バルトはかなりの日本びいきで、天ぷらを

1つの逆説的な夢、純粋にすきまからだけでできている事物という逆説的な夢を、具現するもの

と褒めたたえている。そんなに高い天ぷらを食べたこともない日本人からすると「そこまで言うほどかなあ」という気がしないでもない。だが、ともかくバルトはそう思った。

 すこし考えてみれば日本人にも納得のいく話である。いわく洋風の揚げものというのは油の量感を味わうものだ。バルトの指す「フライ」が何かはわからないが、フィッシュ・アンド・チップスのようなものだろうか。

 それに対して日本の天ぷらに求められるのは言ってみれば「サクサク感」である。バルトふうに言いかえれば「すき間を味わう」ということだ。天ぷらというのは、中心がころもで覆われているように見えて、その本質はそうではない。

サークルクラッシュの中心

 ようやく話を着地させることができる。つまり、サークルクラッシュという現象も、ここまでの例のように「中心が空虚である現象」として解釈されるべきということだ。

 サークルクラッシュにおいて、サークルクラッシャー自身がどれほど魅力的かということは問題にならない。サークルクラッシャーは魅力的な偶像ではない。東京の持つ文化力や経済力の主役が皇居ではありえないように、天ぷらの主役が"たね"ではありえないように、サークルクラッシャーはクラッシュの主役たりえない。

 なんらかの(空虚でない)中心があって、それが周辺に影響をおよぼすーーというのは自然でわかりやすい考えかただが、正しいとは限らない。このような「天動説」的な考え方にとらわれず、「地動説」的な考えかた、つまり「じつは回ってるほうが主役じゃないのか?」と考えてみることは、どのような問題においても大切だ。 

*1:恋愛経験に乏しい男性または女性の割合の多いサークルや集団に少数の異性が参加した後で、その異性をめぐる恋愛問題によって急にサークル内の人間関係が悪化する現象のこと。また、それによって結果的にサークルが崩壊する現象のこと。なお、同性愛などでも起こりうる。<サークルクラッシュ同好会とは - サークルクラッシュ同好会の定義>

*2:ここではサークルクラッシャーに翻弄される男性を指す

*3:SNSで乱用されている言葉なのであまり使いたくないが、まあ仕方がない