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映画『ハーモニー』考――「親殺し」の物語

先日、伊藤計劃「ハーモニー」の映画版を見てきた。

project-itoh.com

これより前に公開されていた伊藤計劃作品*1の映画化である「屍者の帝国」は(僕からすると)満足できない映画だったので「ハーモニー」にもあまり期待はしていなかったが、いざ見てみるとなかなか良い映画だった。2つの映画の比較は本題ではないのでおいておくが、簡潔に言うと「屍者の帝国は原作未読者好み」「ハーモニーは原作ファン好み」ということが言えるのではないかと思う。

ひとまずの感想

この映画化は、とにかく作品の要点をつかみきっていると感じた。映画「屍者の帝国 」は鑑賞していてどうも製作者の意図するところが原作と大きく異なっているように思えたが、ハーモニーに関してはそのような違和感はなかった。映像化に際して、限られた時間の中で最大限作品のもつ雰囲気や主張を伝えられていた。

原作の細かい描写が生かされているところも良かった。みんな原作を読もう。レズ描写は濃い目だったように感じるがまあ許容範囲だろう。

さて、ここで書いておきたいのは、主人公・霧慧トァンとかつての親友にして宿敵・御冷ミァハとの関係性についてである。いちおうネタバレ注意!

御冷ミァハという代理母

霧慧トァンの母親は、物語中でほとんど存在感を発揮しない。父・霧慧ヌァザが重要な役割をはたしているのとは対照的に、である。だが、これは単なる描写の欠落を意味しない。この「母親」の位置に、御冷ミァハが代理されているからだ。

よくわからない主張に見えるかもしれないが、「御冷ミァハは霧慧トァンの代理母である」という仮定を受け入れれば、「ハーモニー」という物語は筋の通った「エディプス・コンプレックスによる親殺し」の物語として解釈できるのである。

1.母としての御冷ミァハ

子供時代の霧慧トァンは、御冷ミァハをカリスマとして崇めていた。ミァハは、トァンに知識を与え、主張をあたえ、愛(ある種の性的な接触)までを与えた。そして、父親に対しては「WatchMe」を――ミァハにとっての敵となるシステムを作る一端となった人間として、母と自分を置いて消えた人間として、ある種の憎しみを抱いていたはずである。 

この「母という根本的な対象、父との対立」ということが、スタート地点になる。

2.御冷ミァハの喪失と「父殺し」 

やがて、トァンは自殺未遂によりミァハ=代理母を失う。トァンの本当の母親は病床でトァンの回復をよろこんだりミァハの死に涙したりしたものの、それはトァンの嫌悪する「一般的な市民」の像にほかならず、これはもはや母親たりえない。

そして物語の中盤、トァンは「大量自死事件」の関係者として、自らの父親・霧慧ヌァザを追うことになる。死んだと思われていたミァハの居場所を知ることも、父親を追う目的に含まれている。ここでは、父親に対する親愛の情などはいっさい感じられない。父親を追うのは事件を解決し、母親の行方を知るためであって、いざとなれば父親にも容赦しないという含みさえ感じられる。本人の弁を借りるなら、

教授、わたしが探しているのは御冷ミァハです。父は、そこに辿り着くための手がかりに過ぎません

ということだ。

2.1 霧慧トァンの男性らしさについて

結論をのべる前に、霧慧トァンの「男らしさ」について書いておきたい。トァンは戦場で優秀な働きを見せ、酒と煙草を嗜むいかにも男勝りの女性である。この性格も、御冷ミァハを失ったことにより母とすべき人がいなくなり、逆に自らを父親にある意味で重ねあわせていこうとした結果だと考えられる。

3.母親と父親の取りかえ

最終的に、霧慧ヌァザはトァンをかばって死亡する。この父の死をめぐってトァンは、御冷ミァハは過激派であり父の死はミァハに起因すること、ミァハの望む世界は「意識のなくなった世界」であることを知る。

ここで、トァンの気持ちはミァハから離れ、「父と母の取り換え」が生じる。父ヌァザとの対立が解消され、「母」であるミァハに対する強力な敵対心が生まれる。かくしてトァンは母から独立した女性となり、ミァハとの対決に赴くわけである。

おわりに

この「ハーモニー」の解釈はフロイトの「エディプス・コンプレックス」理論によっているわけですが、どんな作品でもこじつけで解釈できる気がしてきた!実際ベンリ!

 

*1:円城塔が大半を執筆